旅バカ医大生、絶景求めて世界一周。

アウトドアを楽しみながら、バックパッカーとして世界一周を目指すブログ。現在55ヶ国訪問!以前は野宿で自転車日本一周をしていました。キリマンジャロに登ったり、登山も好きです!

世界一周72日目 ポーランド(25) 〜負の世界遺産・アウシュビッツ強制収容所〜



前日の夜11時ごろにオーストリアの首都・ウィーンを出た夜行列車は、

約9時間後の朝7時半に、ポーランドの古都・クラクフに到着。








さっそく駅のマクドナルドで朝食を食べます。

これで14ヶ国目のマクドナルド!笑








このクラクフという街、昔はポーランドの首都だったそう。


現在の首都は北部にあるワルシャワ







ワルシャワの古い街並みは、第二次世界大戦ナチスドイツにより悉く破壊されてしまいましたが、


そのあと住民たちの「ひびの1本にいたるまで」忠実に復元しようとする、
血の滲むような努力で見事元の姿に復興したそう。








そして1980年、見事世界遺産に登録されました。











そして今日訪れるクラクフという街はポーランドの南部にあります。

昔はポーランドの首都が置かれていたこの街。




第二次世界大戦では奇跡的に破壊を免れ、その姿を留めたままです。

このことから、「ポーランドの京都」とも呼ばれる街。





美しい街並みが広がっています。











ただ、そんな美しい側面だけではありません。



郊外には、負の世界遺産があります。










そう、有名な「アウシュビッツ強制収容所」。


ナチスドイツの施設なので、ドイツにあると思われていた方も多いと思います。

ぼくも実際訪れるまではそうだと思っていました。




実際はナチスドイツの占領下だったポーランドに建設されました。









ポーランド人に、ポーランドを訪れた目的を聞かれたとき、

アウシュビッツを見るため」とは絶対に行ってはいけないそう。



彼らの気持ちも分かります。

70年経った今なお、傷は癒されないのかもしれません。










ナチスドイツは、ゲルマン民族が最も優秀である、という思想のもと、

主にユダヤ人をこの収容所に連れて行き、



働ける健康な男には地獄のような強制労働を、

それ以外の男女は「シャワーを浴びさせる」と偽り、

ガス室に送り込み殺戮しました。










死者は累計で150万人を超えると言われます。

人類史上他に類を見ない悲劇です。











クラクフの街からバスで約1時間半。

日帰りツアーも出ていますが、ぼくは自分でバスに乗って行きました。











アウシュビッツに到着。



パンフレットを購入、見て回ります。






収容所入り口の門。



ドイツ語で「働けば自由になる」と書かれています。

もちろん嘘。



これを作らされた収容者の抵抗が見られます。

よく見てください。




左から2文字目のBの字が上下逆になっています。













アウシュビッツの展示は圧巻でした。



殺された女性の髪の毛が2トン展示されていたり、

殺された人々の膨大な靴が山のように展示されていたり。








殺された人々の顔写真の横に、職業、生年月日、死亡日が書かれているものが一面に展示してあったり。




一人一人に人生があり、それが一瞬で奪われた。


ぜひ一度訪れるべき場所だと思いました。










冷たいレンガの収容棟が無数に並んでいます。








逃走を阻む鉄条網。











見せしめのために逃走を図ろうとした疑惑の者を全員の前で殺した絞首台。









そして、この壁の前で銃殺が行われた、通称「死の壁」。








死の壁から見える景色。



この景色を最後に眺めて銃殺された人はどんな気持ちだだたのか。








そしてあまりにもショッキングだったのがガス室




盛られた土の下に造られました。





シャワーだと偽り出口を封鎖。

天井から毒薬を投げ込み全員を殺しました。






この場で数十万人が苦しみながら息絶えた。


考えただけで苦しくなります。








使われた毒薬の空き缶。










ガス室で殺された人々は、隣にある焼却炉で次々と焼かれました。







あまりにも酷い。








アウシュビッツを語る上で欠かすことのできない人物がいます。

それが「アウシュビッツの聖人」とも呼ばれるコルベ神父。




第二次世界大戦前に日本に6年間も布教に来たこともあるポーランド人のコルベ神父。



以下、聖コルベ館のホームページから引用。






第二次世界大戦が始まり、1939年8月末ポーランドはドイツ軍に占領され、ニエポカラヌフの修道院も荒らされた。

印刷機械は没収され神父や修道士は収容所に送られたが、2ヵ月後釈放された。コルベ神父はまたニエポカラヌフに戻り、1年後に『無原罪の聖母の騎士』誌を発行した。

しかし、ナチスは、彼の説くカトリックの教えとナチスの思想は相反するとして、コルベ神父をブラックリストに載せていた。1941年2月17日の朝、ゲシュタポがニエポカラヌフに来た。コルベ神父はワルシャワの収容所に送られた。

このとき、20人の修道士が彼の身代わりになることを願い出たが拒否され、ついに彼はアウシュビッツ強制収容所に送られた。囚人番号16670。それが、コルベ神父につけられた番号だった。



1941年の夏、コルベ神父はアウシュビッツで強制労働に就かされていた。

ある日、同じ班の囚人から脱走者が出た。捜索しても脱走者は見つからない。このまま見つからないと、連帯責任として、見せしめのために同じ班の中の10人が処刑されることになっていた。

翌朝、囚人は点呼を取り整列させられ、そのままの姿勢で待機させられた。姿勢を崩すと監視兵が容赦なく殴る。

罰として、炎天下で食物も水も与えられていなかった。疲労と乾きで倒れた囚人は、監視兵によりゴミ捨て場に投げ込まれてしまった。午後3時ごろわずかの昼食と休憩が与えられたが、再び直立不動の姿勢を強いられた。



その後、脱走者は見つからず、収容所所長は無差別に10人を選び餓死刑に処すと宣言した。

息詰る時間が流れ、10人が選ばれた。

その中に、突然妻子を思って泣き崩れた男がいた。囚人番号5659、ポーランド軍軍曹のフランシスコ・ガヨヴィニチェク。彼はナチスポーランド占領に抵抗するゲリラ活動で逮捕されていた。



そのとき、囚人の中からひとりの男が所長の前に進み出た。

所長は銃を突きつけ「何が欲しいんだ、このポーランド人め!」と怒鳴った。

しかし、男は落ち着いた様子と威厳に満ちた穏やかな顔で「お願いしたいことがある」と言った。

所長が「お前は何者だ」と問うと、その男は「カトリックの司祭です」と答えた。そして静かに続けた。「自分は、妻子あるこの人の身代わりになりたいのです」。

所長は驚きのあまり、すぐには言葉が出なかった。囚人が皆、過酷な状況の中で自分の命を守るのに精一杯なのに、他人の身代わりになりたいという囚人が現れたのだ。

その場のすべての者は呆然となった。しばらくして所長は「よろしい」と答え、コルベ神父を受刑者の列に加え、ガヨヴィニチェクを元の列に戻すと、黙り込んでしまった。

受刑者名簿には、「16670」と書き入れられた。コルベ神父は他の9人と共に<死の地下室>と呼ばれる餓死監房に連れて行かれた。

のちに、このときの目撃者で収容所から生還した人々は、この自己犠牲に深い感動と尊敬の念を引き起こされたと語った。餓死監房は生きて出ることのできない場所だった。パンも水もなく、飢えは渇きよりも苦しく、多くが狂死する。

そこからは絶えず叫びやうめき声が響いた。ところが、コルベ神父が監房に入れられたときは、中からロザリオの祈りや賛美歌が聞こえてきた。

他の部屋の囚人も一緒に祈り歌った。彼は、苦しみの中で人々を励まし、仲間の臨終を見送った。そして<死の地下室>を聖堂に変えた。



2週間後には、彼を含めて4人が残った。

当局は死を早める注射を打つことにした。彼は注射のとき、自ら腕を差し出したという。このとき立ち会ったブルノ・ボルゴビエツ氏は、いたたまれず外に飛び出してしまった。

彼は囚人だがドイツ語ができたので通訳をさせられており、後日、コルベ神父の最期について貴重な証言をした。

8月14日、聖母被昇天祭の前日、コルベ神父は永遠の眠りについた。



47歳だった。



亡くなったとき、彼の顔は輝いていたという。ひとりの神父が他人の身代わりになって死んだという噂は収容所に広まり、戦後、英雄として語られていった。



後にローマ法皇によって聖人に列せられた。






コルベ神父が収容され、亡くなった牢も見学しました。


真っ暗な地下にあります。

息の詰まるような狭苦しさ。









アウシュビッツだけでは殺しきれなくなったナチスドイツは、数キロ離れた場所に新たに収容所をつくりました。




「ビルケナウ」。


またの名を「殺人工場」。

アウシュビッツの数十倍近い広さを持ちます。







列車で運ばれてきた収容者は、降りたその場で「選別」されました。


働けないと判断されたものはすぐにガス室送り。





このガス室は、敗戦が確定したナチスドイツが破壊して逃げたそう。









線路の向こうに見える門。

この門をくぐって戻る者はいなかった。



「死の門」と呼ばれています。

線路の先には慰霊碑が建っていました。













アウシュビッツ強制収容所といえば、ユダヤ人だけが殺された、というイメージを持つ方が多いと思います。



実際は異なります。









数十万人規模のポーランド人、そして敵国だったソ連の兵士も殺されました。


その中でもあまり知られていないのが「ロマ」の存在。






ユダヤ人と同じく、1500年近く昔から自らの国を持たないロマの民。

ジプシーとも呼ばれています。







主に中欧〜東欧に住んでいる彼ら。

長い歴史の間、ユダヤ人と同じく常に迫害され続けてきました。






彼らもまた、数十万人近くがここで殺されました。








戦後、多くのユダヤ人がアメリカなどの大国で社会的に重要な地位に就き、

そしてイスラエルという自分たちの国を持ちました。



彼らは迫害されてきた歴史に終止符を打ちました。







しかし、ロマの迫害の歴史はまだ終わっていません。

ヨーロッパでは今なお、彼らへの根強い、酷い差別が続いているそう。





ハンガリールーマニアチェコスロバキア

これらの国では、ロマというだけで一般の国民と同じ教育を受けることが許されていません。


彼らはスラム街に住み、教育も受けられず、今なお迫害され続けています。




行政が助長するこの差別。








ぼくたちがアウシュビッツ、と聞いてロマのことを知らないのも、

これに関係しているのかもしれません。









過去のことと思っていたナチスドイツを筆頭とするヨーロッパでの人種差別。


まだ終わっていません。









クラクフの街に戻ったのは夕方5時ごろ。



駅のスーパーで買い物をします。







搾りたてオレンジジュース、オレンジを10個近く使って200円。

物価が安い。








そして何より牛乳。

1リットル60円。




日本の牧場の搾りたて牛乳より遥かにうまい。


ネットでの噂によると日本の牛乳は世界一マズいそう。




それを信じてしまうぐらい美味くて安い東ヨーロッパの牛乳。










夜のクラクフを散策。







1泊500円の宿でシャワーを浴び、泊まらずに出発です。






宿で仲良くなった韓国人のシンさん。

次はぼくと同じくチェコに行くそう。










今夜の宿も夜行列車。





ポーランドクラクフを21時53分に出発し、翌朝7時26分にチェコの首都・プラハに到着します。




約10時間の旅。

ただ、悲しいことに寝台車がいっぱい。

座席しかとれませんでした。








座席が240ズウォティ(約7000円)、ベッドが310ズウォティ(約9500円)。




ただ、誰も乗ってこなかったので結局横になって寝られました。

2500円得した!笑







あしたプラハ観光です、おやすみなさい。




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