世界一周で本当に感動した絶景in中東!8選(5ヶ国)イスラエル・パレスチナ自治区編
ぼくが世界で最も面白かった街はどこか。
そう尋ねられれば、間違いなく「エルサレム」と答えます。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3つの宗教の聖地となっている街・エルサレム。
たった数百メートルの範囲内に、この3つの宗教の聖地が揃っています。
そのため、長い世界の歴史の中でも、
幾度となくこの街を巡って戦争が起こってきました。
この街の領有権を巡って争っています。
エルサレムの中心地は、城壁に囲まれた1km×1kmほどの古い街並みが残る地区。
「旧市街」と言われています。
一概に古い街並みと言ってもなんと、
イエスキリストの時代・すなわち2000年前から殆ど街並みが変わっていない、
そんなレベルの古さです。
英語では「Western Wall」、すなわち「西の壁」と表記します。
なぜ嘆きの壁と呼ばれるかというと、
昔この壁の向こう側には巨大なユダヤ教の神殿があったそう。
それが2000年前の西暦70年、
ローマ帝王によって破壊されてしまい、
いまの西側の壁だけが残ったそう。
この悲しい歴史を嘆き、
多くのユダヤ教徒が毎日この壁に向かって祈りを捧げています。
ぼくが訪れたときには、正統派の服装をしたユダヤ教徒の服装をした人たちがたくさん聖書を読んでいました。
彼らは聖地奪還の願いを紙に記し、この高い壁の石垣の隙間に挟んでいくそうです。
エルサレムを象徴しているとよく言われます。
イスラム教徒以外は中に入ることはできませんが、
すぐそばまで近寄ることができます。
この教会は、十字架に磔されて処刑されたイエスキリストの十字架が建っていた、
いわゆる「ゴルゴダの丘」に建っているそう。
教会の中には、
「まさにここがゴルゴダの丘の十字架が建っていた場所」という聖地がありました。
そこには当時キリストの処刑に使われたと言われる十字架が飾られていました。
2. アパルトヘイト・ウォール(パレスチナ自治区) →行った時の記事へ
イスラエルとパレスチナ自治区(ヨルダン川西岸地区)との国境に延々と築かれた高い壁。
総延長はなんと700km、高さは8mを越えます。
コンクリートで造られた分厚い壁の上に鉄条網が張られています。
その鉄条網は全てパレスチナ側を向いています。
この壁は多くの場所で、
停戦ラインをパレスチナ側へと踏み越えているそう。
壁の建設のために多くのパレスチナ人が立ち退きを命じられ、家を壊されたため、
国際司法裁判所も違法との判決を出しました。
しかし、壁の建設は止まりませんでした。
イスラエルによると、「パレスチナ人による自爆テロからイスラエル人を守るため」の壁だそう。
この壁はイスラエルによる入植を明確にするためのもの、という見方が殆どです。
正式名称は「分離壁」ですが、
通称「アパルトヘイト・ウォール(人種隔離の壁)」とも呼ばれています。
元はと言えば、有名なイギリスの「二枚舌外交」に端を発します。
第一次世界大戦の際、イギリスは敵対していたトルコを弱体化させるために、
トルコの支配下にあったアラブ人たちに、
「トルコに反逆したら戦争が終わったあとにおまえたちの国を作ってやる」
と約束し、アラブ人を蜂起させました。
同時にユダヤ人に、
「支援してくれたらユダヤ人国家を建国させてやる」
と約束しました。
そして第一次世界大戦はイギリス側の勝利で終わりました。
ユダヤ人、アラブ人はイギリスとの約束通りに、
現在のイスラエル・パレスチナの地域に、
夢だったそれぞれの国家を建設しはじめます。
双方の民族が、
「いやいや、イギリスと約束したの俺やから!
ここに俺らの国つくるねん!おまえ来んなよ!」
って感じで戦争が始まりました。
イギリスは知らんぷり。
ユダヤ人が社会的な要職を占めるアメリカは、当然イスラエル側の味方をしました。
その結果、アメリカを味方につけたイスラエルの圧勝。
どんどん居住域を広げました。
そして築かれたのがこの「壁」。
現在、パレスチナ人は2地区(ヨルダン川西岸地区とガザ地区)に分断され、
壁の向こう側に押し込まれています。
パレスチナ側の壁は、人々の落書きやメッセージで溢れています。
その中にはイギリスの有名覆面アーティスト・「バンクシー」による作品も複数箇所にあり、
タクシーをチャーターすれば見て回ることができます。
イスラエルとパレスチナ、どちらの味方をするか意見がある人もいるでしょう。
そんなことは全て置いておいて、
本当にこれをいま、
自分の目で見ることができてよかったと思いました。
これまで訪れた国の中で最も身の危険を感じた国・パレスチナ自治区。
ただ、間違いなく、最も「来てよかった」と感じた国でした。
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